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積  乱  雲

積  乱  雲

エッセイ わたしのきもち (2011)

社会福祉法人はらから会 はらから会報       2011・4月~12月に連載

4月  はじめまして大越桂です
5月  手
6月  仕事って何だろう?
7月  できることとしたいこと
8月  支援されることとすること
9月  医療のこと
11月 作品で勝負!
12月 なぜ、何のために



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わたしのきもち ~始めまして大越桂です~


 みなさんこんにちは。私は二十歳を迎えたばかりの駆け出しの詩人です。詩人と名乗ることもちょっと照れくさいくらいのひよっこ社会人です。

 私は未熟児で生まれたときから重い障害と共に生きてきました。重度脳性まひの毎日を全介助で全て他人の手によって生かされています。弱視のために目もほとんどよく見えません。気管切開をしているのでたんの吸引が必要です。食事はできません。胃ろうからの注入や在宅で酸素も使います。そのために24時間医療の管理が必要です。生まれたときからこの身体とつきあっているので、みんなこんなものだと思っていました。

 ところが!実は周りには健康で元気な人がいっぱい!私のような人は障害者と呼ばれ、何かと不便なことがたくさんあると次第に明らかになったのである!
 私は言語障害もあり、長い間「う~」と「あ~」とにっこり笑顔、で用を足していました。でも成長するにつれてだんだん周囲の解釈とのギャップが大きくなり、自分の気持ちがうまく伝わらないことにものすごく苦しみました。とりあえず笑顔でなんでも「あ~(はい)」とやり過ごすわけには行かなくなったのです。だって、私にも気持ちがある。みんなの考えとは違うこともある。やりたいこともある。嫌だ!と、ナンとしても阻止したいことがある。なのに、「あ~」と「う~」と笑顔だけでは通じません! がまんにがまんを重ねるうちに体調を崩し、何度も吐いて、肺炎を繰り返しました。何ひとつ「私の本当の気持ち」を伝える間もありませんでした。(詳しくは本を読んでね!←すかさず営業)

 危篤のときに、たくさんの人が病室に別れを言いにきました。薬で沈静のかかった私は見た目眠った状態で、ずっと「勝手にさよならなんか言うな!」と怒っていました。おかげさまで峠を越えて、でも直後に気管切開でいのちと引き換えに声を失いました。貴重な「あ~」と「う~」だったのに!

 それでも世の中ピンチはチャンスでした。筆談と出会い、本当に本当に私の気持ちを伝えることができるようになったのです。それから、詩を書き、詩が歌になり、本を書き、コンサートを開き、こうして言葉でみなさんと出会えるようになりました。 何もいえない、何もわからない、重度重複障害児だった私が、一度も会ったことのないたくさんの人に思いを伝えることができるのです。夢のようです。

 そしてまだまだ初心者ですが、詩や言葉を使って仕事をするようになりました。あとりえ・ローリエを作って、詩や書や短歌など作品を発信しています。また、音楽家や朗読家など、色々な分野の人々とみやぎ表現者Net.杜の星座を立ち上げました。この活動を通して異分野とのコラボレーションによる様々な表現に挑戦しています。
障害が重くても、仕事がしたい!と私は思っています。仕事についていろいろなことを考える、そのことが正にこの原稿を書く「仕事」です。楽しい仕事になりそうです。どうぞよろしくお願いします!

あとりえ・ローリエ ブログ「積乱雲」
きもちのこえ~19歳・ことば・私~(毎日新聞社)



                                (2011・4) 




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わたしのきもち 5月 ~手~



 小さいときから私は手をぎゅっと握っていました。いつも、いつも、固く握り締めていました。本当は開きたいときもあったのですが、なかなかそうできませんでした。
握りこぶしの手はいつも目の近くにありました。弱視でよく見えない目にも見えました。親指をまんなかにして、爪がいつも隠れるくらいに一生懸命握っていました。

 リハビリや遊びの中で、先生が一生懸命手の平を開こうとしました。なぜそんなことをするのか。いつもいやでした。私の手の平はいつも小さな親指を中心に、周囲の色々な恐ろしくて嫌なことから私を守ってくれる安心の素でもあったのです。それなのに、指をみりみりとひっぱられて、無理やり何かを持たされて、おもちゃの音でびっくりして!そういう時はぱっと捨てることができたりして。ビックリしたときだけは手のひらが一瞬開くことができるのです。

 だんだん、手を開くと誰かの手と握手したり、遊んだりすることができることがわかりました。冷たいのやざらざらや、ときどきかじって痛くてまたびっくりしたり、泣いてやっと離れたり。そんなふうに、手はとても便利でみんなと仲良くなるのにすごく役立つものになっていきました。でも。私の手は、思ったときに思ったように動かない、ちっともいうことを聞かない、さっぱり役にたたない手でした。

 障害者の中でも、手が思うように使えないことは大きなハンディだと気がつきました。私は、手で自分からできることが何もないことをいつも悲しんでいました。他に腕や足や目や口や、身体のどこかが思ったように利用できればよいのに。全介助の肢体不自由の私には使える場所がありませんでした。弱視で目もよく見えません。思ったことを伝えられないことがどんどん苦しくなって、いのちも落とすところでした。

 ところが、その、使えない手を使って文字を書くことを教えてくれる先生に出会いました。最重度の重複障害者で何も理解できないと思われていた私が気持ちを伝えられるようになりました。相変わらず身体障害で肉体の不自由はフルコースの私ですが、色々なことを感じて生きている人間だということが通じたのです。私の心は自由になりました。
 
 モノのように見えるかもしれない私を人間として扱い、大切にしてくれるたくさんの手がここまで私を連れてきてくれました。私の手も役に立たない手ではありませんでした。どちらの手の先にも心があったから通じたのだと思うのです。だから、私は初めて会った人と握手する瞬間をとても楽しみにしています。



「手」

私の白くて小さい手
みんながほめる長い指
箸も持たない箱入り娘の手
この手は何も仕事をしない
でも
握手をすると
みんなの心がわかる

冷たい手
かさかさの手
大きな手

とんがった手は痛い
うつろな手は悲しい
考える手は安心
あなたの手は
・・・・あったかい


                                 (2011・5)


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わたしのきもち 6月  ~仕事って何だろう?~


 そもそも仕事、ということばの意味がよくわかりませんでした。両親が仕事に出かける、とか、先生は仕事なんだから頑張って、と聞く。弟が成長するにつれて、自分の仕事をしっかりやりなさい、とか、この仕事をお願いすると助かる、と頼りにされて喜ぶ姿を見る。でも、当の私が生活の中で「仕事を頼まれる」ということがあまりありない人生でしたからね。そこにいることが仕事、なんてわけのわからないことをいわれて励まされたものです。おかげでますます、わからなくなった!

 なのに高等部に入学すると、急にせっせと、仕事、仕事、と言われるようになった。このギャップは障害が重い人にはちょっと大きすぎるのでは?高等部はすぐ目の前が社会の出口と煽られた。いきなり3年間で仕事人を目指すなんて無理ではないか?第一、重複障害の重い私は、最初から仕事人を期待されていない気分になっていたのも事実です。

 健康な高校生が自分の進路を探すように、私にも進路が迫る。なのに、何をしたらいいのか、の前に、何ができるかとか、どこなら行けるのか、さらに、どこなら空いているのか!という問題ばかり大きくなっていきました。本当は何をしたいのか、という一番肝心な本人の気持ちなんてあんまり言える雰囲気ではなくて。告白。

 社会の現実問題はまず置いておこう。私は、高等部になぜいくの?ということを聞かれて、もっと勉強したいと一番思いました。高等部は学校だ。学校は自分の力を伸ばして、より自分が必要としている自分への進化の為に修行するところだと思いました。中学部で命を何とか保ち、それにばかり時間を費やしたので、もう勉強の時間があまりないと思いました(本当はあったんだけどね)。高等部も訪問学級でしたが支援学校にいる同級生や先生方に色々なことを教わることができて、ものすごく力になりました。人生が変わった!!

 先生に会えると思えば元気が出たし、友達に会うために学校に行きたいと思えば体調も上向いた。それでも進路を決断する締め切りが近づくにつれて、自分の居場所がまたなくなる、と焦りました。障害が重くて医療ケアも必要な私は、どこにも必要とされていないように思えました。日中活動の実現にはハードルがたくさんありました。そのうちに何のためにそこに行くのか、ということがどんどんわからなくなって、障害が重くてもそれなりに就職や通所の進路先をみつけていく級友と自分の間に深い溝がうまれていきました。

 私はただいるだけでよい、周囲のみんなに命の意味を教える、生活リズムを整えると丈夫になる、刺激を受けると活性化する、というのとは違う。事実、それが精一杯の体力であったのだけれど、それでも何か人の役にたつことを「自分で」したい、それを実現できる方法をみつけたい!とものすごく思った。やっと私の「仕事」という言葉に意味をつけました。意味をつけただけで卒業リミット。それでも、本当に社会人・仕事人の時間がスタートしました。何をどのように始めればよいのか?それを考えるところから仕事でした。誰もやったことがなさそうな自由業。手始めに父から実印をプレゼントされて、形だけは整った気分!このハンコが、あとりえ・ローリエの第一歩となりました。(祝)


                                 (2011・6)


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わたしのきもち 7月  ~できることとしたいこと~


「仕事」

世の中にはくさんたくさん仕事がある
世の中にはたくさんたくさん人がいる
人が仕事に出会うのか
仕事が人に出会うのか
どっちもどっちでどっちも正しい

世の中にはたくさんたくさん苦労がある
世の中にはたくさんたくさん喜びがある
苦労が喜びを作るのか
喜びが苦労を壊すのか
どっちもどっちでどっちも正しい

世の中にはたくさんたくさんモンクがある
世の中にはたくさんたくさん感動がある
モンクがモンクをよんでくる
感動が感動をよんでくる
どっちもどっちでどっちも正しい

私の中にはたくさんたくさん夢がある
私の中にはたくさんたくさん挫折がある
挫折が夢を砕くのか
夢が挫折を包むのか
どっちもどっちでどっちも正しい

私の仕事はなんだろう?
私の夢はなんだろう?
夢と仕事がくっつけば
なんと世界はパラダイス
苦労・挫折・モンクはスパイス
なくてはならないアドバイス
すると
勇気百倍よみがえる

私が仕事に出会うのか
仕事が私に出会うのか
私が仕事を好きになり
仕事が私を好きになる
どっちもどっちでどっちも正しい





 ハンコひとつでスタートした社会人。仕事場に出かけるのならば気分も変わるし、やる気も出そうです。でも、私は毎日居間で生活し、居間で授業し、居間で医療ケアを受けていた。全部同じ場所です。気持ちを切り替えるといっても、関わる人が変わる、というのが一番大きな手がかりでした。

 仕事は母親の介助とケアで成り立つのだから、ホント代わり映えしなくなってしまった。自宅で自営業の人だって、仕事部屋くらいはあるだろう。あ~、困った。
 そこで、仕事のよりどころを作りたくて、まずは仕事場に名前をつけた。それが、あとりえ・ローリエだ。さらに、仕事中の母は事務員ということにして、パートナーになってもらった。でも、分刻みで親になったり看護師さんになったりするのだからややこしい。少なくとも、仕事に関しては私が主宰だ。始めは在宅介護モードが強くて、親の都合が優先されやすかったけれど、だんだんあとりえモードにパッと関係が切り替えられるようになってきたと思います。尊重してもらっている、と思うとうれしいものです。

 何をどのように仕事にするのか、考え始めるとハンコがあってもだめだとわかる。意識の切り替えがないととても難しい。やりたいこと、できること、も混ざりやすい。同じ文章でも、ブログと原稿と詩は違う。自由に書くのと、求められて書くのも違う。それでも、まずはできることからしかできない。なので、社会とのつながりを一番実感できたブログを欠かさず書きました。そして、本を書くことに!正真正銘の仕事に出会っちゃった!


                             (2011・7)


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わたしのきもち 8月  ~支援されることとすること~


 自信はどこからうまれるのだろう。自分を信じるから自信なのでしょうね。では、どの自分を信じればよいだろう?
 言葉を使う前の私は、何を体験しても、「できないことをわざわざ確認すること」の連続でした。これもできない、あれもできなかった、とできない自分を見せつけられて、自信のかけらもありませんでした。できなくてもいいからまず、体験!という活動が多かった。やええみないと始まらないけど、楽しいものもあったけど、ちっとも楽しくないものも多かった。支援する人は楽しそうでしたけど。(笑)

 人と比較はできなかった。自分の状態がそういうものだと思っていたから。他人の感じ方はわかりようもない。私の楽しみは絵本の言葉を耳から聞いて、頭の中で組み合わせて遊ぶこと。周囲の人や環境には注意をはらっていたから、みんなを観察して想像しては楽しんでいました。(失礼!)なので、保育や学校で、どうしてこんなに面白いお話の時間が少ないのか本当に残念だった。どんな遊びもやらされている感じが強くなってつらかった。
受け身の活動と受け身のケアで、すっかり自分を「主張」しなくなってしまいました。周囲の出来事は黙っていても自然に流れていく。どうせ通じないので、私は自分の頭の中で世界を全部まとめていたのですね。

 その間みんながいろいろ楽しませようと「してくれる」ので、とりあえず「合わせてあげて」しょうがないや、という世界が出来上がっていった。太刀打ちできない世界でも自分が物になれば、あんまり口惜しがったり悲しくなったりしなくてすむ。私を物のように扱う人もいたけれど、どうやら自分から物になっていたようですね。なんて後ろ向き!
言葉が生活に役立つようになってからもしばらくは、私の唯一の得意分野は「言葉」で、一体何ができるのだろう?と悩んでいました。ところが!本を作る過程で、ものすんごく価値観が変わったのです。

 本が1冊形になるまでに、ものすごくたくさんの工程があり、たくさんの人が分業して関わっていました。頭では知っていたけれど、編集のパフィンさんが何度も東京から足を運んでくださり、何度も原稿を直して、表紙のデザインナーさんと会い、タイトルを考えて、試し印刷をして・・・等々。私は、頭で考えて言葉を出しただけなのに。目から鱗!
本ができてからも、印刷の工場や全国の本屋さんに配達するしくみや、いろいろな場所に紹介されたり、インターネットで注文できるよう
になったりして、またまた、目から鱗!仕事とはものすごい分業によって成り立っていた!目の前のできごとに、本当にすごいと感動した。

 すると、鉛筆1本自分ではもてない私だけど、究極の分業システムの中では参加できるんじゃないの!という実感が生まれた。同時に、希望も生まれた。またまた同時に、仕事のほとんどの部分を誰かにやってもらっているという負い目が消えた。さらに同時に、みんなでやっているのだ~!!という感謝の気持ちが本当にわいてきた。

 仕事というのは、どんな仕事もそうなっている。知っていたけど感じていなかった。感じるチャンスがなかった。趣味や楽しみとは違う。仕事の重みだ。お金を払って、私のことばと出会ってみようとする人がいるのだ。

 それは、少しずつ、感想や本にまつわるエピソードが届くようになってもっと実感しました。同じ気持ちでいた人や、元気が出てきたと言ってくれた人や、涙を流してくれた人。それによって、私がどれだけ元気づけられているかを知りました。ちょっとびっくりしました。私が人を支援する方はほとんどないと思たから。私が生み出したものでちょっとは誰かを助けることもできたのか~!案外お互いさま?急浮上。

 みんな得意分野で分業しながら仕事をすればいいんじゃないか?それなら自分ができない分野はその道の得意な人を呼んできて、協力すればよいわけ?何だか色々なことができそうな気分に盛り上がってきました。そのためにはもちろん出会わないと。で、営業!販売促進!広報!・・・というわけで、うかうか喜んでいるわけにはいかなくなってきた感じ。
 自信は自分を信じること。自分を好きになること。自分が好きなことをあきらめないこと。希望をもつこと。得意分野はず~っとその人にとては得意分野なのですからね!(自信過剰、妄想、尊大注意)

 私は支援される人だと思い込んでいたかも。分業の精神になってみると、普段のケアや生活も、される人→協力して一緒になしとげる人、と変化した。すると、もっとこうしてほしいなあ~ということも我慢しないでお願いできるようになった。そうしたら、母が介護で疲れたときや悩んだ時も、悪いな~と思わないで、積極的に痰を出さないようにして介護負担軽減に協力できるようになった。こういうことは仕事をして知った気持ちです。きっと生活だけではわからなかったことなのだろうと思います。



「万華鏡」


小さな窓からのぞくと
そこには無限大の世界が広がる
刻々と形を変える色のかたまり
色は色と組み合わさって美しい形になる
いつもいつも動いている
二度と同じ形になることはない
時間とともに変化する世界

一つの色は私
私が動くとみんなも動く
私とみんなはいつも一緒
一人のためにみんなが力を発揮する
不可能を可能にする

窓からのぞく世界は
自然の中の宇宙
生き物どうしのつながりは終わらない
宇宙のひとこまの私はいつも変化して生きる
あしたの夢は無限大に広がっている
いろんな宇宙と交わりながらいつも動いている


                              (2011・8)


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わたしのきもち 9月  ~医療のこと~

 新型インフルエンザのニュースを聞くたび、基礎疾患のある私は冷や冷やしています。健康な人でも死亡した知らせや、子供があっという間に悪化したという情報を聞けば聞くほどドキドキしてきます。注意した方がいい人のリスト項目に私はばっちり該当している。気管切開している。喘息をもっている。普段の風邪でも半日で悪化してとたんに肺炎になる。重症肺炎になったこともある。そのときは、呼吸器のお世話になってそれはそれは苦しい思いをした。そのたび「危険な状態です」になる。

 今のところ、周囲の人のケアの中で最新の注意を払っていただくことや、手洗いうがいなどの予防で何とか過ごしている。もちろん通所も休んでいる。できるだけ人と接触しないようにしている。ワクチンをうつまでの辛抱、辛抱、と言い聞かせています。

 そんなときに、弟の学校で感染がおきて学年閉鎖になった。正に弟のクラスでも熱が出た人がいた。3日間ウイルスを持っているかもしれない弟は私に接近禁止命令が出た。私の部屋への出入り口扉は閉鎖。部屋に入る時はマスク着用。部屋に入るときは3メートル以上離れる。もちろん手洗いうがいもだ。

 今回はなんとか感染していなかったようで、禁止命令がめでたく解除された。でも、その間、私は本当に本当に緊張して過ごした。
 いくら気をつけても、一緒に生活している家族が感染したらたぶん私もかかるのだろう。トイレや食事をする場所も一緒だし、いくら手洗いうがいしても介護を通して今まではやっぱり風邪をもらってしましました。

 街の様子はまだそんなに警戒していない雰囲気を聞きます。同時に呼吸器が不足するとか、入院の部屋がないとか、かといって家で治療もできないだろうとも聞きます。
 いつもチャレンジャーで決断や実行の早い主治医の検診で、現状は私がそれまで考えていたように甘くない状況だということがわかってきました。いつになく先生が超真剣な表情でいたからです。一気に私は行動をチェンジした。みんなが平気そうでも、私の状況はそうではない。本気になった。絶対まだ死にたくない。まだ、やりたいことが山ほどある。
 
 健康な人にとって、病院や医療は具合が悪い時にお世話になるものです。また元気になれば離れて日常生活を送ることができます。今まさに重い病気の人はずっと入院して病院で過ごしている人もいます。私は医療の力を借りることによって在宅生活が成立しています。日常的にたくさん医療の世話が必要です。それがあるから元気でいられるのです。

 全介助でも相当介護は大変なのですが、それに医療が加わると、これまたすごく大変になります。とはいっても、医療ケアというお世話の中には色々な段階があって、家でできることは比較的安全で正しく処置すればする人もされる人も安心して実行できます。

 ただし生活は24時間。その間途切れなく必要な吸引などは「何回もしなければならない」という大変さがあります。そのため、いつも誰かがスタンバっている必要があります。栄養をとるための注入(私は胃ろうの穴から小腸まで留置しちえるチューブにポンプで栄養ミルクを注入している)や気管切開のカニューレをときどき引っこ抜いてしまってヒューヒューしたときにもう一度入れ直してもらったり、というのも医療行為です。カニューレは引っ張らないようにいつも注意しているのだけれど、やっぱり麻痺が強い時は、あっ!と思った時に、もう抜けている。という失敗の連続で、何度もしかられています。

 医療ケアができるのは病院のスタッフと保護者です。在宅で医療ケアをしながら生活を維持するのには、訪問看護師さんやヘルパーさんの助けが欠かせません。看護師さんは派遣の時間がまだとても短くて、その時にまとめて痰を出すとかしてみたけれど、そんなのは不可能でした。ヘルパーさんも事業所によっては対応してくださるところが出てきて本当に本当に助けられています。いつもお世話をしてくれる人が吸引もできると、本当に安心です。対応してくださる事業所がまだ不足しているので、業者さんを探すもの一苦労、変えるのも一苦労、慣れてもらうのにも一苦労。手続きや引き継ぎや練習など、さまざまな手続きがあって、さらに、人と人が信頼か関係を作るまでにはお互いにかなり時間をかけて努力しました。そのかいあって、今は安心の在宅生活に近づきつつあります。さらに理想の在宅生活になるよう頑張っています!

 医療ケアと聞くと、多くの人は、いかにも病気が重くて大変そうで、お世話も難しくて怖くなって、荷が重い、やっぱり専門家に任せてとこう、となりやすいようです。親はわが子のことなので結構必死で覚えてくれました。ものすごく有難い。医療ケアも簡単なのから難しいのまであります。私は今まで、自宅で高カロリー輸液をしたときが一番緊張していました。弟も自己注射していたし、私のケアを含めると我が家には結構普通に医療ケアがある。たまにトラブルがあっても、母はかなり慣れてぱっと対応してくれる。特技医療ケアと言ってもよいくらいになってきた。父はその域にはまだまだである。でも、ケアの丁寧さや気配りは父の方が上である。おばあちゃんはかなりのことをお願いできるし、おじいちゃんも緊急見守りはお願いしている。弟も人工鼻を交換するのはうまい。立場や性格によっても、対応できる医療ケアの内容が異なってくる。それでも、私は、家族や支援の色々な人のケアが必要なときにさっと与えられる前提が毎日を支えているのだと、本当に感謝しています。

 まず、生きること。それを守るために医療があって、なんとか退院しました。生活を維持するためにも医療があって、たくさんの人が関わっています。さらに、社会に出るためにも通所先や仕事場所にも医療が必要です。今は日中活動で利用している仙台市障害者福祉サンターに看護師さんがいるおかげで一人で利用することができるようになりました。先日から看護師さんが2名になったおかげで私は外出もできるようになりました。まだ週に1回しか利用できませんが、病院や家で安心して受けられる医療ケアが社会にもあるおかげで私は社会参加ができます。まだまだ行きたいところや、やりたいことや、必要に思うことが山ほどあって、いつもそれらは医療ケアが高い壁になって立ちはだかります。医療ケアのある障害の重い人が仕事もする、なんて、100年先と言われたこともあります。でも、目指さなくっちゃ近づかない!

 医療は一時お世話になるものだけではありません。医療とともにいるから楽しくて充実した毎日を送れる人もいます。体調が良いということは、自分が自分でいられる第一歩。そのたくさんの項目も中でも、息が楽にできるというのは最も大事です。

 重症肺炎できとくになったとき、気が狂うかと思うほど苦しかった。それをここまで引き上げてくれたのは医療です。やっぱり、どう考えても、今新型インフルエンザにかかるわけにいかないと、気を引き締めて予防しています。みなさんも気をつけて過ごしてくださいね!




 「自由なわたし」

わたしにできることは寝ること
何もできない
いいことも いやなことも
いつだって受身で待つだけ
うれしいことも 苦しみも
伝えられない
何のために生きているのか
誰も教えてくれない
声でいっしょうけんめい
伝えようとしたけれど
心の美しい人にしか通じない
一日のほとんどは
苦しい時間で疲れはてる

息が楽になるのは本当にすてき
にこにこ笑える
みんなのやさしさも
受け止める余裕になる
気持が明るくなると
今日をがんばれる
そうすると
明日もいい日になりそうな感じがする
希望が出てくる

肉体が不自由でも
精神的自由は私だけのもの
自由な私は何でもできる
生きているってすばらしいこと
ひとつひとつ失っても
いのちはいつも美しい
どんな姿になっても
愛で包まれていることに気づけるのは
今の私だから
みんなの愛に
気がつくことができた私は
今の私で
十分だと思います

いのちの意味は
ひとりひとり違う
私はどんな姿でも
生きていたい
生きていることは
本当にすてき



                                (2011・9)


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わたしのきもち 11月  ~作品で勝負!~


 この会報がみなさんに届いている頃は、みやぎ表現者Net.杜の星座による「いのちのことばコンサート」が終了していることでしょう。杜の星座は4月から宮城ゆかりの色々な分野のアーチストがともにコラボしながら新しい表現に挑戦するグループです。私は詩を作り、作曲、演奏、朗読、絵画、手話などで表現する挑戦です。 

 4月から仙台市長町の遊楽庵びすた~りを会場に月に一度のティータイムコンサートを開き、ゲストなども交えながら詩とのコラボをお客さんと一緒に楽しんできました。その総集編でもある「いのちのことばコンサート」は、東北大学百周年記念萩ホールという大きな会場でたくさんのお客さんと楽しいひと時を過ごせればよいなあ、とみんな準備にそれぞれ全力投球しています。

 活動の始まりは、杜の星座代表のテノール歌手、松尾英章さんが詩を書く人を探していた、というところから。自宅でお会いしたとき、ベッドの横ですぐに名曲に私の詩を当てはめて歌ってくれたのが「ほほえみ」です。ひゃ~。っと、何ともうっつくしい声です。声を失くした私は、歌える人はいいな~とうらやましく思ったりしていたのですが、そんな次元を越えて、びっくり仰天! ほほえみという四文字が入口になってふわふわ浮かび広がる暖かい気持ちいっぱいに包まれました。

 それまで自由に詩を書いていた私にとって、リクエストに答えて作るというのは未知なる世界。曲に歌詞を当てはめたり、名曲から湧き上がるイメージを言葉にする、というのはとても難しいチャレンジでした。

 チャイコフスキーのピアノ曲に詩を作ったときに、演奏家から「寂しすぎるのでは?」という感想が届きました。曲を100回以上聞いて、まったく自由に作った詩でした。私のイメージと演奏家のイメージが違ったのです。それは、違う人なのだか当たり前。私はこう思ったから、これでいいのになあ~、と悩んでしまいました。

 その後よく話し合ってみると、演奏家は曲の背景や、作曲家のことなどを勉強して演奏ているのだそうです。私はもちろん知識も背景もゼロ。そして、コンサートはそれを受け取るお客さんがいます。あまりにも「普通のイメージ」とかけ離れてしまったら、みんながぎょっとしないか、とか、嫌な気持ちにならないか、とかが気になりだしました。すると、だんだん、みんなに気に入られるような作り方をしなくてはならないような気持が湧いてきて、でも、それは自分の本心とは違うのにと悩みだしました。あ~しょっぱなからスランプ!?
 そもそも、私は詩をほめていただいて本当にうれしかった。それは、障害がある私が書いたものだからなのか、詩がよいと思っていただいたからなのか、つまり、障害が先か詩が先か悩みだした。

 障害者が作ったものだから感動した、とか、大変だけど頑張っているから偉いといわれる時があります。発信したものを受け取っていただくのだからありがたいことです。でもときには、障害者がかわいそうだからほめてあげるオーラを感じる時があって、そんな時はものすごく悲しくなる。障害者にはやさしくしなければとものすごく気を使ってもらっていることを感じる時もあります。そんなときは、だいたい自分が障害を妙に意識してできないことの言いわけにしようとしたり前に進むのがちょっと怖い時だったりする。

スランプでぐずぐずしていても、締め切りもあるし、通訳マネージャーの母がどうすんの?と煽るのでじっとしているわけにもいきません。

しょうがないから、正直にみんなと気持ちを話し合うことに。かなり勇気がいることでした。みんなさすがプロだった!話し合いは、相手の価値を否定するのことではなく、相手と自分の価値の違いを合わせてよいものを作っていく作業だと教わった。頭では知っていたけれど、私自身に障害者としての遠慮や傲慢みたいなものが生まれていたようです。

障害がある人の仲間の中にいると、みんなに障害があることがもう当たり前なので、そのことを気にしなくてよい。杜の星座のメンバーのみんなはけして障害や福祉のことによく慣れた人ばかりではない。けれど、ひとつの音楽をいいものにしていこう、と思う目標のもとではそれぞれの得意分野で参加しているだけあって、だんだん私も障害があってもなくてもあんまり関係ない気持ちになっていきました。

受け取る人の中には、障害者というところに感じるセンサーを働かせる人もいるだろう。そうでない人もいるだろう。詩に反応する人もいるだろう。発信する方がこれで今の最高!と思うものを出して、受け取る人のそれぞれの気持ちの中で何かのセンサーに響いたときにそれぞれの音楽ができあがるのかなあ、と思う。演奏会は特に、その場の臨場感や空気感が現実のもの、たった一つのものなのです。だからこそ、一体感と感動が生まれます。

本にも読者という相手がいました。書いたものを否定的に捉えられたとしても、自分の意見と違う人がいても当然と思えました。それは、本を作るという作業が分業に支えられていたけれど、書いたものに対する責任は私にあったからなのだと思います。同時進行で一緒に音楽を作るという流れの中では、作品に対する責任をみんなで背負っているのだと教えられました。ならば、私自身も障害に甘えてはいけないのだと思いました。障害や病気を失くしたり隠したりすることはできないけれど、その条件の中では本気で参加しなければならないと強く感じました。そんな本気度がみんなの中にありました!

何かを表現していくとき、自分の気持ちだけを押し付けるのでは、単に自己満足になるでしょう。受け取る人に合わせてばかりいたら、何のためにやっているのだろうといずれくたびれるでしょう。障害者が作るものでも、いいものはいい、と言えるようになりたい。障害者が作るものだから、いいものがもっといい、となったらさらにいい。そして、作品を前にしたとき、障害者でもなく健常者でもなく、一人の人と人として表現する人と受け取る人が共に感動したり嬉しくなったり力が湧いたりしたら、本当にうれしいです。
なので、やっぱり、最終的には「作品で勝負!!」なのですね。
いのちのことばコンサートまで、あと1週間です。
かなり、ドキドキしてきました。




「方向」 


この驚きはどこへ向かっているのか
とまどいが泥になり勢いを増す
エネルギーの出口へ向かい
もうすでに動いている

粘りをもつ力に
引き込まれ
吸い込まれ
巻き込まれ
押し出される

ふと流れは方向を変え
小さな輪を作る
渦の中心をほどいて
水底に光を見せた

きっとこの道でいいのだ
自由を駆けている呼吸
もう止まらない
駆け抜けろ
駆け抜けろ
力を全てふりしぼれ


・・・チャイコフスキー四季8月 収穫 に寄せた詩・・・


                 (2011・11  10月は紙面の都合で休み)




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わたしのきもち 12月 ~なぜ、何のために~


 いのちのことばコンサートからもう3週間経ちました。はっと気がついたら、カレンダーはあと1枚になり、年賀状の準備が始まり、来年の計画や抱負を考える時期になっていました。この会報も12月号。2009年の最後です。

 コンサートのひとときを、1000人ものたくさんの人たちと共有することができた感激をひとことで表わすことができません。ホールいっぱいにざわめく人々の声や、息遣いを感じながら(残念ながらよく見えないので!)、ひとつひとつのステージを一人の観客となって聞きました。

 自分で生み出した言葉がいろいろな音楽や楽器の音色、朗読や絵、手話、合唱などの方法によって次から次へと飛び込んできました。一つ一つの詩を旅にだしたつもりで出来上がりを楽しみにしてきましたが、ホールの響きの中でライトをあびながら演奏される様子は、結婚式の晴れ姿!という気持ちになりました。

 初まる前から感激して緊張していた私は、痰も多くて、しょっちゅう吸引してもらうことになってしまいました。落ち着いて音を聞けたのは1週間も経ってから。会場では、何をどのように聞いたのか、自分でも理解できないくらい、体全体が反応していました。
 とにかく、すごく、すごいことが起こっている!ということだけはわかって、体の中から心臓や心が飛び出さないかと冷や冷やしちゃいましたよ~。ほんと、すごかった。
 最後に会場のみなさんと「ほほえみ」を大合唱したときは、合唱のみなさんの声に足元から持ち上げられて、そのあたたかいほほえみの中でふうわふうわと浮かんでいました。
 お世話になった人々、友達、などなど、たっくさんの人においでいただいて、本当に幸せな時間でした。全部みなさんのおかげだったと改めて感謝しています。

 一つの仕事を終えて、私はすっかりくたびれて、感動の渦の中で2週間もぼーっとしていました。他のメンバーの人たちは、もう、どんどん次なる仕事にとりかかっています。そんな様子を見て、大人はすごい!元気な人はさすがだ!と感心してしまいます。
 そうなのでした。私は必要なところだけを用意してもらい、必要なことだけをして、準備も後片付けも、み~んなみなさんにお願いしているわけです。疲れれば、休んでいることを許されているし、眼に見えないたくさんの仕事をなんとたくさんの人が分担して実行していることでしょう!コンサート当日の裏方の仕事はもちろん、終わってからの様々なことをしている人がいる。私はそれらに参加したくてもなかなかできませんが、できることはしたい。できるだけ自分の言葉で御礼状を書くなど、がんばりました。ゆっくりペースでしたが、やっぱり、自分でお礼を言えるということはとてもうれしいことです。

 私のように作品を作る人と、それを演奏する人では、忙しいところがそれぞれに違っているので、舞台を作り上げる音響や照明の調整などどれだけ大変だったか、会場に行って改めてよくわかりました。控室でモニターを聞く間も、最後の調整や練習をする演奏の人々の集中度がこちらにも伝わり、本番も一緒になって演奏する気持ちになりました。ステージが進むにつれて、会場全体がどんどん集中していく空気の感じや、音が一か所に集まったり広がったりする感じが頭の中に浮かびました。

 たぶん、どの分担の仕事をした人も、それぞれの心と体の中でその集中度を感じとったのだと思います。一生懸命に取り組んで、苦労した人ほど、得たものが大きいことでしょう。仕事の喜びとは、そういうことなのかな、と思います。
 コンサートを通して一番考えたことは「自分は、なぜこの仕事をするのか?」ということです。なぜ、というからには、何のために、というおまけももれなくついてきます。ついでに、どのように?というのもございますね。

 どれが先になってもいいのですが、私の場合、好きだから詩を書くというのから始まってきたものの、何のために?とか、なぜ詩をかくのか?と今回ほど考えさせれたことがありません。自分と会話するためだったり、誰かのためだったり、社会人として自立する姿勢のためだったり。と、その時々に目的はあったのですが、仕事には、どこへ行こうとしているのか、目指そうとする方向などが必要なのだと気づかされたのでした。
 何かを表現したり、発信したりするからには、責任が伴うことを少しずつ体験させていただいています。その上で、自分が何をしたいのかという姿勢をしっかりさせておかないと、世の中のたくさんの価値の中で自分を見うなうことになる。

 自分の体の中で病気と向き合う時も、自分という芯がしっかりしないと、あっという間に病気に支配されそうでした。仕事の意味とは、社会という大きな体の中で、自分という芯の家をどの場所に建て、誰と一緒に住んでどんな暮らしをするかを、自分で決めるということなのでしょう。決めるからには、どんな選択肢があるか知らないと決められないし、たまには騙されて失敗することもあるだろう。本当に自分にとって必要なものを選ぶための力も必要です。私はまだまだわからないことだらけです。ということが、わかっただけでも、あ~良かった~。(笑)

 例えば「作品」という言葉一つとっても、表現の仕事をする人々一人ひとりに「作品」についての考え方がある。いつ、どこから「作品」というかも異なる!とは。誰がいつ「作品」と決めるか、というタイミングもあるようです。(←驚)そんなことももちろん知りませんでした。それらのひとつひとつの中には、仕事に対する一人ひとりの思いがあり、それぞれに自分のスタンスを決めているようです。自分の中に作る基準や価値、大切にしたいもの、絶対捨てたくないもの、忘れてはいけないもの、それらを全部注ぎ込んだものが「心を打つ作品」となるのでしょう。深い・・・。

 コンサートという一つの目標に進んでいる中でも、アーチスト一人ひとりの中には大切にしたいそれぞれの価値がありました。自分の知らない分野の知らない価値を教えてもらいながら、それぞれを尊重するうちにみんなでする仕事がパワーアップして渦となって広がりました。感動しました~。

これからも「なぜ」「何のために」「どのように」を探す詩を書きたいと強く思います。
 来年もいのちのことばコンサートを計画していますよ。ご期待くださいね~!




「いのちさがし」   

今の小さな私でも 
今日のいのちを生きる
愛の光に包まれて 
明日を信じている

今の小さな幸せを 
暖めながら生きる
心静かに祈るとき 
力あふれてくる

いのちさがしの真ん中に 
一つだけある光
生きる喜び輝けば 
明日の意味を照らす

生きる喜び輝けば 
明日の意味を照らす

・・・アメイジング・グレイスにリメイクした歌詞・・・


                             (2011・12)



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